テレビスターが、夢だった。序〔長すぎる前置き達〕〔テレビスターって?〕


アホみたいに長い。実際アホだからかな。こんな長くなるつもりがなかった。自己満足だと自認しつつも、自己満足的に終わらないように注意したいとは思っていたが、日々ちょっとずつ書いてるうちに完全に自己満足に満ち満ちた。こんなに長くなって恥ずかしい。誰か読んでくださる方はいるのだろうか……?序破Qシンとあります。

概略

〔長すぎる前置き達〕→
〔テレビスターって?〕→


〔“夢”(笑笑)についての遍歴〕→

Q
〔なぜ突然諦め、そして言おうと思ったのか【完璧主義の放棄】【自意識過剰を自覚】〕→

シン
〔急の晩期みたいな内容&(今後について)〕


「遅過ぎる 身の丈を知る 21」

まぁ、身の丈どうこうの問題でもないけど

21歳。山口百恵が引退した歳だけど。シド・ヴィシャスの享年だけど。この現代において、まだ人生やり直せる歳かなと思っている。信じている。祈っている。

だいたいから言って21歳でダメそうなら人生終わりみたいな感じになってる日本社会がおかしい。自分がそういう立場になると、そういう思考回路になるもんなんだな。

それでも21歳まで正当に積み上げてきた人たちは僕より報われるべきだと思うし、どうしようもないな。

これはめちゃめちゃ勇気のいる投稿。
初めて言う場所が一応匿名インターネットで良いんだろうか。
まず、全世界に向けて発信することに対して、かなり躊躇した。何度もやめようと思った。
ただ最近会った数人には話した。

なんでも自己開示すれば良いってもんじゃないとも思う。それでも知り合いも沢山見てるだろうしここで言うことにした。連投して多くの投稿の中に紛れさせるなんてこともしない。

剥き出しの自意識を全世界に晒す。

諦めることで口にできるし
口にすることで諦められる
徹底的に諦めてみて初めて自分にできることが探せる。だから言うことにした。こうやって過去の自分と訣別するのだ。まぁもう諦めたけど。
きちんと諦めたのは2021年の3月中下旬だったと思う。

諦める勇気、みたいな本があれば良いのにな。ただ、別に昔の僕が読んでも響かなかっただろう。まず手に取らなかっただろう

諦めた今でもこうやってめちゃめちゃ前置きしてしまう

他人からすれば
そうだったんだ!へー、で終わるかもしれないのに。

そんなこと思ってたのか…!今後関わりたくないぞい…!みたいな、とてつもなくデカイ感情を持たれることを異常に危惧している。これはまさに“自意識”の強さなんだと思う。

そう。テレビスターが夢だったのだ。ずっと。まったくもって嘘じゃない

少なくとも8年以上はなんらかの形で心の中に常に抱えていたことだ。

将来何になりたいか聞かれて、
中1の終わりくらいから基本
「それはちょっと人には言いたくなくて…」
と答えてた。そりゃそうだよな。答えはテレビスターなんだから。言えるわけないよ。恥ずかしくて。

僕は常識だって知性だって別に全くないわけじゃない。多分

しかし底抜けに頭が悪い部分がある。

諦めることを受け入れる方法がわからなかった。完璧主義の放棄からアプローチすれば良いのかと気づくまで21年もかかった。あまりにも愚者であったため、まず完璧主義者としての自覚を決定的に欠いていた。完璧主義という語を聞いても、完璧主義かぁ、、そういうフシも僕にもあるなぁ、、くらいのノリだった。所謂完璧主義のイメージより遥かにスケールのデカいものにすら無意識のうちに完璧主義を適用させてしまってきたからだ。

かなり歪曲した形でのピーターパン症候群だったのかもしれない。別にこの症候群は疾患ではないし。こういった在り方もあると思う。できもしない理想を仮想の目標としてしまった結果、高校卒業後何もできないという…。

【テレビスターってなに???????】

僕にとってのテレビスターのイメージって

石原裕次郎的なモノなんだよ。そういうプレゼンスのデカさ。彼はどっちかというと銀幕のスターだけど。
ダウンタウンDXのスターの私服とかそういうレベルじゃなくて。

こればっかりは多少の昭和趣味に影響されてるのは否定できないだろうな

ハナ肇クレイジーキャッツとかそういうの。今見てそれで笑うとかはないので、やはりプレゼンスに憧れてる部分が強い。

そういえば、僕自身小学校に遅刻しそうで送ってもらう車の中のカーナビに映ってた谷啓の訃報で谷啓の存在を知った。そのレベルなんよ。よく考えたら。今の若い子は知らんよな。

とにかく国民的な存在になりたかった。

しかし21世紀にそんなもの存在しない。知ってた。知ってたけど夢だった。目標ですらあった

国民国家の解体が進行していると思う。テレビスターというのはある意味でナショナリズムの象徴だ。
未だにテレビの影響力というのは意外なほどデカいと感じることも多いが、皮肉なことに、世界の一体化が進み過ぎることによって、同一国民間ですらいかに価値観が違うかが浮き彫りにされ、国民意識の弱化が促進させられている現代において(Twitterとかで同じ日本人のはずなのにあまりにも価値観の違う人間の意見がコンスタントに目に入ってしまうということです)、各個人の嗜好への適合度の高い文化的な選択を可能にするメディアが存在しているため、ひどく文化的に分権的になっていると思う。
この20年くらいで確実にサブカルチャーの最大多数派がメインカルチャーと化すみたいな傾向が強まっていると思うが、それもこのことと関係してる気がする。椎名林檎の国民的存在化とか、椎名林檎じたいの変化もあるが、まさにそれだと思う。

今年出た、朝井リョウのスターという作品がある。申し訳ないことにまだ読んでいない。積ん読が多過ぎて。ただ文庫化されたら必ず買って読もうと思っている。その程度の志ではある。その作品は、もはや国民的なスターが存在し得ない現代においてryみたいな前提に立っていて、書店で軽く立ち読みしてホンマになぁと思った。

それに
15分なら誰でも有名人になれるみたいな言葉が、もはや使い古されてるレベルのこの時代である。まさにテレビスターが存在するのとは正反対の状況

実際Twitterで流行るネタとかの消費期限ってもはや3日とかですらないと思う。誰もが肌で感じていることだ。

ただ、ずっと一縷の望みとしてポストモダンはプレモダン的になる、の法則がこのスターというものに対しても適用されないかなぁというのがあった。

例としてしっくりきにくいけど
たとえば、、
Twitterで何年も前のバズツイを何回も見かけることがある。
この事実は僕をとても落ち込ませる。


しかし、こうとも考えられる
早すぎる歯車は止まって見えるのかもしれない、ということだ。

それに加えて俺がテレビの地位そのものを回復させてやる…!という途方もない野望すら持っていた。


それでもやっぱりポストモダンのプレモダン的な要素としてテレビスターが発生することを期待することはできないなと思った。

そもそもないものを目指しても仕方ない。
なんか、ソ連の書記長が夢です!みたいなんとさほど変わらないズレ方な気がする。

大橋巨泉は、テレビが家で王様だった時代に、テレビの世界にいられたことが幸せ、と言ったが本当にそうだと思う。

(テレビスターが夢だった破
http://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/04/27/010705
に続く)