テレビスターが、夢だった。Q〔なぜ突然諦め、そして言おうと思ったのか【完璧主義の放棄】【自意識過剰を自覚】〕

テレビスターが 夢だった。破〔“夢”(笑笑)についての遍歴〕(http://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/04/27/010705)の続き


【完璧主義の放棄】

認知の歪み、という概念をしっかり認識し出したのは3浪、つまり2020年のことだったと思う。色々要因はあるけど、FFの人がRTしてた人格改造完全マニュアルのあるページを載せたツイートを見たことがデカかったと思う。申し訳ないがその本は読めてないけど(積ん読が多すぎる!!)、色々「認知の歪み」でググった。そして、僕はこの認知というやつが極端に歪んでるなと認識できた。

軽くしか触れなかったので完璧主義についてもう一度。
前述の通り、自分がいかに筋金入りの完璧主義者であるということに結構最近自覚的になった。
1日1日の送り方から人生の送り方まで、受験勉強から文化の摂取まで僕は全部完璧主義的だった。そしてそれゆえの0 100性を発揮して結局何もできないことが僕の人生そのものだった(他にもたとえば人との会話の反省会をしては落ち込むのも完璧主義の毒みたいなところがあり、人とのコミュニケーションのイデアなんていうのは、イデアというものの性質上存在しないわけだ。だからそれにならなかったことを悔やむのは無駄だということだ。人とどうせうまくコミュニケーションを取れないからという理由で人と会わながちになるもの0 100性の弊害という感じがする。)

特に1浪2浪開始時は酷かった。この傾向が顕著に発現している。

1浪が始まった時、
わけあって(大したことではないがひとまずここでは詳細は割愛)、東京での一人暮らしで浪人することになって、
最初は宅浪(結局駿茶に通うのだけれど)で、高1の時点で自分の家で勉強できない性質に確実に自覚的になっていたのに、心機一転頑張れる(笑笑)と、一日12時間は勉強すると信じて、それを実行し、完璧な受験勉強なるもの(この表現で伝わると信じている)(信じてばっかりかよ)を実現しようと思っていた。が、結果はどうだ?

2浪時なんて浪人が決まった瞬間に、ペースメーカーとするための週2の2時間のZ会の授業以外の時間をすべて自習室での参考書学習に充てることを決意し、、
やりたいと思ってる参考書を各教科すべて書き出し〔参考書通(ゴミ!!!)(参考書コレクター的気質ほど実力のない受験生にとって有害なものはない!!!)(自覚してた。ずっと。でもこの情報化社会!)〕故にめちゃめちゃ多い)、それらを全てまずは1セクションくらいやってみて、どのくらい時間がかかるかはかり、、  2浪の1年間各日の24時間計画表を作り、そのどのくらいそれぞれ時間がかかるかっていう実験をもとに(流石に一気に秋冬まで埋めるということはしないが)タイムスケジュールを組むという作業を進めていた、、。。、、。!

これは遠視眼的になりすぎてることも含めて僕の“悪い”部分がすべて出ている。

結果としてZ会の週2の授業の予復習すらずっと中途半端という状態の1年間を送った。


2021年の2/17
ある日自転車に乗ってて、突然、ひどく自分は強欲な人間だなぁと改めて思ったことがあった。
何かを得たいなら何かを差し出さないといけないんだよな全てを得るなんて無理だからな当たり前なんだよなわかってるけどさ…みたいな気持ちになった。
全てを手に入れた人生しか嫌、という完璧主義だったのだ。
完璧主義が先か、強欲が先か、はわからない。そんなことはどうでも良い。ただこれらをやめることにした。

やはり多浪という点で人生にあまりにも傷がついたから、どう考えても完璧主義を満たすのが無理だなという、
まぁ人は親がそれを赦し、放っておいたら多浪してしまうわけで、、
時間が解決してくれるタイプの受動的な諦め理由の発生によって完璧主義の撤廃が可能になった気がする。

“主義”って実は相当重い 感情に根ざして所持している信条だ。
旧ソ連の社会“主義”者がいきなりウォール街に放り出されて生きていけるだろうか?
自由民主“主義”に「毒されてる」我々は、すぐに独裁に本能的とまで言えるようなアレルギーを起こす。
どうしても自分がテレビスターになれない人生を受け入れられないと思ったのだ

ありとあらゆることに劣等感を感じては消耗してしまうのもある意味で完璧主義が原因なんだと思う。全てのことができていないとダメだ!と思うから。これはまだ原因を特定したところで全く自由になれてないけど。まぁなんにせよ4浪かつ将来性が全くない状態だから当たり前だけど。
誰にも負けないことをせめて一つは見つけたい。

あとこれも前の記事(http://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/03/25/220812)で触れたけど
100を満たすのが理想で、残りの20を満たすのがとてつもなく難しい時に、80を満たしたらかなり気が楽になるのに、0の状態から見上げて100と99の差が異常であるかのような見方をしてることがあまりにも多すぎるのでやめたいと思った。

こういうのが積もり積もってる中で

この記事(http://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/03/25/220812)にもあるように
2020年2月14日(強欲への気づきはその3日後ということになる)頃に完璧主義の撤廃への道の入り口に立った。この日の時点ではまだ東大に受かるまで受け続けようと思ってたけど。ただもう色んな事を受け入れられる土壌ができ始めたおかげで、1ヶ月後には東大を諦める勇気が持てたし、しばらくしてテレビスターにいつかなるぞという幻想も捨て去ることができた。



2021年の1月僕は3年ぶりに村上龍コインロッカー・ベイビーズを読んでいた。3年前よりも遥かに物語の世界に没入することができた。主人公の一人 ハシがスターになった後、転落して「僕はただみんなから好かれたいんだ」「僕は狂っていない、みんなから嫌われて悲しいだけだ。」と言った。ハシ…!と思った。この物語で僕はハシに最も共感し続けた。
村上龍に改めて強く惹かれた僕は、本屋をフラフラしててたまたま目についた「村上龍映画小説集」を読み始めた。
そこで自分が自意識が強い人間であることをきちんと認識することができた。

【自意識の輪郭】

なぜ急にテレビスターが夢だったことを激白できたか

それは“自意識”の躾け方を会得し始めることの萌芽がうっすら確認できる、そんな状態になったからだ。

自意識の強さゆえにずっとこの夢(笑笑笑)を人に言う勇気が持てなかったのだ。勿論諦めたからというのもデカいけど、

自分が自意識過剰な人間であるという事実に自覚的になったのは2021年になってからだ。

○○という自意識、みたいな用法は認識していたけど、

「自意識過剰」という語じたいはかなり狭義的にしか捉えられていなかった。別に自分について言及されているわけでもないのに、勝手に自分について言及されていると思う(これはそのことで注目されることを主体が好ましいことだと思ってる文脈において)、みたいな意味に限定される語だと思っていた。

2021年の2月に読んだ村上龍映画小説集で結構自意識の強さに関する言及が多く、いや僕やんとなり、自意識過剰の様々な意味を認識したのだった。
(この本は本当に素晴らしく、明らかに僕を変えた一因だといえる)

思えば邦楽の歌詞なんかでも自意識に言及してるのは多く、共感(笑笑笑)できるなーなーんて後から思ったりした。

僕が抱えてる意識における諸問題は途方もなく多岐にわたり、頭を抱えていたが、かなり多くに対して「自意識過剰」から分岐して発生してることだというレッテルを貼ることができて、気持ちが楽になった。

自意識過剰の人はアガリ症だという。
僕は人前で話す時は確かにアガりやすい。
それでも、ずっとアガり症であることをなかなか認められなかった。性質ではなく状況のせいに毎回してきた。しかし、自意識過剰故のという根拠を得てしまった。
アガっていてはテレビスターになれないな。

自意識という語は割と多義語だ。

単に強いといっても色んな形での発現の仕方がある。

たとえば赤裸々度?が高いと自分が思うことを投稿する時とか、その前に1つ後に2つくらい10分以内の間隔で無難な内容を投稿したいとか

たとえばこの記事がそういう記事なんだけど、今回は剥き出しの自意識を晒そうと、前後に何も投稿しなかった。


ベテランちさんと意識について喋った時、かなり印象的なことを言われた

それは「強すぎる自意識は自意識を抑圧する」という彼の持論。

この記事(【東大医学部YouTuber】コロナ禍に突如現れた天才・ベテランちにUmeeTが凸ってみた https://todai-umeet.com/article/59309

の話にちなんでしたんだけど
逆張りを極めた先にYouTube」というのもそういう感じだというのだ。

この自意識への切り口は結構マイナーな気もするが、
今の僕の様々な考えの基調になってるので一応、、

たとえば逆張りをしてしまうとか、そういうのって自意識の強さから起こる行動だという話だ。

「こんなメジャーコンテンツや流行りのモノを無邪気に好んでいるだなんて他人に思われたら恥ずかしい…!熟慮とかないんだな…!と思われる」という自意識から、実は毎日白日を聴いたりしてるのに、若干マイナーなものを好みとして挙げるということだ。

ある意味でのサブカル趣味もそういうところがあるだろうし、(まぁ僕はTheサブカルって感じじゃないけど)



しかし逆張りをしてるなと思われるのもまた恥ずかしいのだ。
そういう自覚が生まれてしまうと、強すぎる自意識が自意識を抑圧するという状態になるのだ。こういう過程を全く経ずに最初からこの状態の人も結構いると思うが、

これを僕の例に適用させると、例えば
赤裸々過ぎる内容の記事を、前後の他の記事の連投によって中和させようする時、この営みは決して結果的には自意識の保護膜になっていないということだ。結局他人は赤裸々過ぎる記事の方しか目がいかないので結局恥ずかしいことをしている。


多義語?としての自意識についての他の側面?について書くと、

他人が自分に対して注意を払ってないということは流石になくて、そこを問題にすると、気にするな!と言われてもいやでも注意向けられてるやん!ってなるから自由になれない。
大事なのは、注意こそ向けてても、そんなにデカい感情を持ってない/一瞬持ってもすぐ忘れる/そもそもほとんどの人間にどう思われようと大したことではない/ということなのだ。凡庸すぎる注意喚起だな。Wikipediaの「自意識」という記事に書いてあるようなことだ。

この記事(テレビスターが、夢だった①)の冒頭あたりで語ってた自意識の話は、そういう意味で自意識だ。
たとえば、予備校の受付で生年月日を書かされる。4浪だと思われる!なんて思うわけだけど、別にそれ自体は間違ってないわけで、実際受付の人には4浪なんだなぁって思ってるには違いないわけで、でもそれ以上の感情は持たないわけだしそもそも受付の人に4浪だと思われることは僕にとってそんなデカイことではないはずだ。そういうことを意識していきたい。


マイナスのニュアンスを持つ無意識過剰(自意識過剰の対義語)という言葉もあるわけで、人目を気にしないのが良いことではないし、サブカル的というかなんというか少なくともたとえば米津玄師の好きな曲を聞かれてピースサインやlemonと即答してしまわないような自意識もある程度は絶対あった方が良い。
とにかく適度なラインを探したい。
中庸が苦手だから。なんにせよ。僕は。これを直していきたいのだ。

このようにして自意識というものを“敵”として認識、向き合い始められたからこういった(少し前の僕からしてみたら)「激白」といえる内容を投稿することができた。

「自意識」については「自意識に関する補足」https://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/06/11/170444という記事に補足を書きたくなって書いてます。

もちろん自意識が強いからこそ完璧主義に陥っていた部分も多分にある。


ちなみにテレビスター云々とYouTubeを始めたのはまっったく関係ない。

まっったくは言い過ぎかもしれない。
なんにせよ不特定多数から承認を得る手段だから。
でも、少なくとも少しは違う。

僕はおそらく日本の人気YouTuberベスト30とかの動画を全部合わせても2時間以上見たことがないと思う。そのレベルだ。まず、YouTuberというジャンルにすさまじく疎いから

始めた理由は、始めるとしたら今しかないと2020年の4月に思ったから。本当にそれだけ。このチャンスを逃してはならないと強く思った。見る前に跳べ、をここで実践しようと思った。

高校の2個上の先輩のチャンネルがありえない速度で爆進し、高校の同級生のYouTuberが出した僕に言及した動画がそこそこ再生され、
コメント欄で暗躍してる場合じゃないだろと思った。

今や竹中平蔵や椎木里佳すらYouTubeチャンネルを持っている時代。彼が始めたのは僕より後だったけど。例が悪いか。
なんにせよ、そんなマジでYouTubeやっていく!という人以外もなんかチャンネルくらいは持ってる時代だなぁとは思ってて、そういう中で、チャンネル登録者を得やすいタイミングだよな今は、と思ってしまった。ここで逃してしまうと次なかなか来ないであろうと、。その結果が2020年4月24日

ただ副産物として色々思うことがあり、それは良かった。

自己演出能力の低さ。低いというか、何をやればもっと人に見てもらえるようになるかを
わかっててもできない。わかってるからこそできない。自分の“良い”ところを全面的に押し出すことに異常な恥ずかしさを感じてしまう。そこにかなり純度の高い無駄な自意識を見つけられたのだった。突きつけられたのだった。
ただ、ずっと自意識という語で捉えることすらできずもがいていた。最近気づき“つつ”あるわけだ。

YouTubeへの動画投稿という「手段」は
僕が自分に対する「ものさし」として使っていこうと思っている。自意識の強さとかを測るための。

僕の中では自意識を躾けられるという福音は聴こえている。まだリスナーの皆さんは感じてないかもしれないけど。そのうち動画を見てもわかるレベルになると思う。


そう、YouTubeを始めたおかげでベテランちさんとの関わり?などで色々見えてきたことがある。

前述の記事(https://todai-umeet.com/article/59309)内で、お笑いが好きであることを語り、そんなにお笑い好きなら芸人になろうとは思わなかったのか?と聞かれて

彼は「東大卒で芸人になると、東大卒を全面に押し出て芸人をするのも、東大卒を敢えて隠して芸人をやるのもスベってて、どっちにしろ微妙な感じになる。要は逃げ場がないという。。」みたいな返答をしていた。

僕自身了解しつつも、僕が目を背け続けた事実を指摘されてるなぁという気持ちになった。

もう東大も諦めてしまったけど。。。これも無数にある諦めた理由の一つにカウントしても良い。

3浪までした理由はちょっと違うけど、
成績が悪いのに目指し始めた理由はそうだった。
前述の認めさせるみたいな強気さではないが
「学歴は浮き輪」という観念がくるものだった。。

というか、これは宇佐美りんの「かか」の単行本p109「すべてのばちあたりな行為はいっとう深い信仰の裏返しです。」という一節から思ったことだけど、僕のある種の逆張り的気質はある意味、潜在意識下ではあるが極度に権威主義的な部分からくるものだと思う。

テレビスターが、夢だった。シン
〔急の晩期みたいな内容&今後について〕https://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/06/11/195940
に続く。