テレビスターが、夢だった。シン〔急の晩期みたいな内容&今後について&虚無との本格的開戦〕

テレビスターが、夢だった。Q〔なぜ突然諦め、そして言おうと思ったのか【完璧主義の放棄】【自意識過剰を自覚】(https://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/04/29/205335
の続き。

父にもよく、将来何になりたいか、を聞かれては、はぐらかしていた。中2以来ずっと。流石に文理選択とかもあるし将来医者になりたいわけではないとその時点では言ったから。父親との会話ではすぐに会話が脇道に逸れて脇道が本流になったりもするので、深く追及され続けることはなかった。

父親は結構長い期間僕はやりたいことがないと思い込んでたらしい。ある意味で正しかったかもしれない。テレビスターなんて存在しないんだから

2021年3月14日(3/10が東大合格発表4浪決定直後ということ)に父と会い、東大だけを目指し続けることをやめる決意をしたという話をした。
その時、父親にまた夢を聞かれて
少しだけ話せた。
少しだけだけど

僕がある夢を持ってからかなり長い日が経過していて、その間に世界じたいも僕の世界認識も結構変わってて、、みたいなモゴモゴした前置きめいたことを述べた後、

最低限のラインとして何かは言える、と言い、文化的雪かき、と答えた
(いや実際そういった職業の人もいるわけで最低限なんて言うのは失礼だけど)

父親は幸い2020年に村上春樹ダンス・ダンス・ダンスを読んでいたので
(父親はノルウェイの森が発売された頃に同時にダンス×3も読み全く意味がわからなかったという。僕の勧めに従って風の歌を聴け1973年のピンボール羊をめぐる冒険→ダンス×3の順に読んでみたら非常に良かったと言ってきた。だから仮にいやそんな人はいないかもしれないけどこの記事を読んでこの作品に興味を持った人がいてもこの順番で読んで欲しいです)
ダンス×3の作中に出てくる「文化的雪かき」という語がすんなり通じてよかった

(全然関係ない話をしてしまうけど、
ほんとに文章だからギリこんな入り組んだことを説明できるが、喋りだとまず無理だなーーーと思ってしまう。)


父親にその時話せたのはホントこれだけだった。
しかし最近この最低ラインもちょっと厳しいんじゃないかと思っているけど、、

まだでもこれがはずみになって、ちょっとずつテレビスターを将来の目標に設定することを諦めること、そしてそれまでそうだったことを発表することを決意できるようになった。

何者かになりたいとかそんな自分に対して無責任な考えも持ちたくない

「遠視眼的にならない」が今後の人生のキーワードなわけで

ここまで述べた結論がそれかい!という感じなんだけど、

なんにせよ身分が無職はどうしようもない。本当の意味でのサバイバル能力は、無職の状態からやっていける能力なんだろうけど僕にはそんな自信がない。4浪大学生も大概だけどさ、、
本当に高卒ニート4年目では何にも取り組めない。
やっぱりとりあえず大学生になりましょう、
だからどこか四年制大学に入れることを第一目標とする受験勉強を今年はボチボチしましょうという……
普通、どれだけ遅くても18歳で得る気づきを得たわけですなワラワラ


はぁ、、
上手く語れなかった、、
そのことにより、自分のこれまでの人生の否定を自分で自分に突きつけてしまった。そうするべきだったんだろうが。
結局ずっと僕が持ち続けてた未来像が果てしなくゆるふわしたものだったからなんだろうな。


PS

色々考えた結果4浪目も予備校に所属じたいはすることにした
それは3/10以降の自分の生活を踏まえた結果だ
→外出圧力の創出について(https://matryoshkaddicted.hatenablog.com/entry/2021/06/11/184938

勿論21歳予備校通いを父に許されるという大前提があるのは重々了解している。


予備校の授業開始が4/16とかで、、
それまでに既に5月病以下みたいな心理状態になっていた。所謂4月病を3月の段階で完了してしまうのは多浪あるあるだと思う。

初回授業は全部ギリギリか2分遅れみたいな感じになってしまった
はじまってみたら不思議とやる気が出てきた。レベルが丁度良いのと講師陣がかなり良かったからだ。

しかし、
4/20くらいに突然強烈な虚無主義に陥った。

なぜこのタイミング?わからない。機が熟したのだろう。多分。

結局自分がいつか死ぬのが嫌過ぎる。これに尽きる。しかしそんなことを言っても仕方ない。避けられないことなのだから。

僕の中には物心ついた頃から常にタナトフォビアの炎が灯っていた。常に人がいつか死ぬという事実の虚しさも抱えていたということだ。

そんな幻想では小腹すら満たせないけど、
中1までなら離散に行き上手いこと人生をやっていつか世界征服するぞ!、中1以降ならいつかテレビスターになるぞ!みたいな壮大すぎる野望が糖質ゼロ寒天みたいにお腹に詰まってて、
それを急に吐き出してしまったもんだから、
空疎さが耐えがたい感じになっている。

虚無の燈火に油が注がれたとでも言えるかもしれない。

一度このことを意識しすぎると、人の生というものの虚しさのことしか考えられなくなった。

ツァラトゥストラはかく語りきとかを読んだとかではない。逆に読まないといけないと思っている。

人がいつか死ぬ運命にあることについて、どこかでなんとかならんかなぁ…という気持ちが小6の頃はかなり強く 最近まで実は潜在意識下に、実はまさかの死なないとかあるんじゃないか(????)みたいな観念が存在していた可能性がある。

複数の視聴者から紹介された、中島義道の著作などを読んだ方が良い気もする。が何か解決する気もしない。



そもそもこの程度の精神変化を21歳で経験してることが最悪なんだよ…!

今は、人生が無意味だと思いすぎるようになってから日が浅いため、
このことと普通に日常生活もやっていくこととの間に折り合いをつけるというか
欺瞞と実際の調節に慣れていないというか(建前全般を受け入れようと思えたのがまず割と最近)

精神に関しては、
僕は中2くらいから少しずつ
産業革命で言うところの1740年頃みたいな状態になってさ
灘校社会で適合してるフリができるようになりかける一歩手前くらいの状態にはなった。
灘校社会とかいう超寛容空間においてひとまず精神的成長ができたということだ(灘生にありがちな臆病な自尊心 尊大な羞恥心も結構バチバチに奥に秘めていて根底では結局ずっと克服できなかったけど、、!)

とりあえず、今起きてるような精神変化の触媒
となったことたちを受け入れられるような精神性をとても長い期間をかけて形成していった。

なんとなく2浪までに東大入学くらいはこのままの精神構造で受験勉強を続けていれば入れるものだと思ってて。。。

どれだけ遅くても中高生のうちに起こすべき精神の変化の前提が、2021年のはじめくらいにはじめて完成した。
 
もう精神の発達がさ、、晩成型(笑)過ぎるだろ。
・ 


完璧主義は日常の至る所に顔を出してるのを自覚しては潰していってるつもりだけど、やはり根本精神としてなかなかにしぶとい。いつか死ぬから人生は虚しいし何かを頑張るは難しいみたいな0 100思考を自然としてしまう。YouTubeでこの話をしたら選民思想が激しいと言われて鋭い…!なるほどな…!とも思った。
それはそうとして、曖昧なものを騙し騙し認識するのがひどく苦手だ。この世にはそんなことしかないのに。自覚はしてると思う。ただ感情としては持ってしまう。これが虚無主義につながる。

この虚無主義を克服したいと思えない時期が続いた。今も若干は、そう。なぜなら否定しようがないから。それに、虚無じゃなかった頃から、幸せに生きるだとか 精神状態を良くするだとか こういったことに前向きになれなかった。そんなことに何の意味があるのだと思っていた。そういった精神性は継続している。

ただ死にたいとは思っていない。これだけははっきり言える。てか本当にむしろいつか人が死ぬのが厭過ぎるというのが僕にとっての虚無主義の起源だからさ。。。
それって虚無主義失格なんじゃないか?って言われそうだけど、人生の無意味さには苦しんでる。これは自信がある。なんといえば良いんだろう。

いやマジで大学で哲学を本格的に学んでもないのに、浅いこと言い続けるのは恥ずかしいですよ。それで何らかの救いも期待できないし、何よりも理解できる自信もないから、しないけど。


死なない以上生きていかないといけない。むしろタナトフォビアは強まってるまであるわけだから、

何度も言うが、希死念慮がゼロなのだ。
いくら虚無と言っても、死にたいと言う気持ちと一切共存していない虚無。

だからこそ
単に「不快」を減らすために…!「快」を増やすためにこの資本主義社会において成り上がること。これは大事だと考えている

ほっといたら僕はあと60年以上生きるだろう。これは全祖父母がまだ死んでおらず、その中で一番若い人が1945年生まれであるという遺伝子が示す結果からも確かだ。

人生が無意味であることを意識せずにいるだのライフハックを得るのもいつかは検討していかないといけない。いやまだその段階までいけてないけどさ、、

あと、、
即座に満たせないhangerをごまかして日々は生きていかないと人生が辛すぎるので、
多少の小腹満たしで騙し騙しもアリなのかも知れない。
これは以前に否定した漫然とした小腹満たしとは由来が異なるから良いと思う。目的意識を持った小腹満たし。


oh baby ,wait and see
たまには小腹も良いよね♪



大森靖子も言っているように

終わってからが人生

なのだ

大事なのは徹底的に絶望することだ。これは2021年の3月13日に僕が尊敬している高校の同級生に電話で言われた言葉だ。その中で見出せる救いの萌芽のようなものを生み出せると僕は思っている。


【人生をやっていくためのインセンティブについて】

僕は物心ついた時から近代人的でありたいと自然と思っていた。自分が近代的だと思い込んでいたことを過度に正義だと思い込んできた。合理主義を拡大解釈してきた。

たとえば常に科学的(笑笑笑笑)ではないものを否定してきた。科学的ってなんなんだということだけど。
たとえば、とにかく論理的(笑笑笑笑)でありたい。科学や論理の限界を了解しつつも、将来的にすら人類が到達できないであろう領域にすらそういったものへの期待を適用させ続けてきたりするなどの極端さがあった。わからないことはそれ以上想像を広げるべきじゃないみたいな考えすらあった。

しかし最近それらが「誤り」とまでは言わないものの、少なくとも人生をやっていく上での足枷でしかないことに多少は自覚的にはなった。

感情と本能は分けて僕は語りたい時もあるけどここではまとめて、、、(基本的には思考上の意識→感情、の段階を踏んで様々なものは本能レベルに落とし込めると考えている。)

感情や本能を導火線として(いや、多少はこの社会で生きていく以上それらに赴くままに動いた場合の自分が不快感を憶えるような悪影響に関して遠視眼的に思案こそするが)今までよりかは「動物として」生きていこうと考えるようになった。

悪影響について遠視眼的に考えるのも別に知恵を持つ生物としての人間たる本能のようなものだとも言えるし、、
あぁ…こういう感じの議論を始めるとすべてが堂々巡りになったりするから始めないでおこう。

本能に従うことを優先することにより、虚無主義を忘れられる瞬間を積み重ねていきたい。

まぁ兎に角、本能だとか感情だとかに素直になろうと

感情に起因する思わず人生をやっていかないといけない!という動機。それは好奇心だ。僕は、これが、幼い頃からものすごく強い。

それは日常レベルでもそうなんだけど

いや、禁じ手にしている遠視眼的なことを敢えて言う

技術的特異点信仰というのも僕にはあって。僕が普通に生きているうちに技術的特異点なるものをこの世は迎える可能性があるらしいので、、。流石にそれは気になる…!

まずそれを迎えるにあたって、それを迎えるのに相応しい自分になっておきたいし、、

技術的特異点を迎えれば、色々なものに対して真の絶望が得られるのではないか、という希望がある、というのもある。本当の意味で機械的にしか生きられない人間、みたいな。


あとは感情に基づくものといえば共感とか利他性とか良心とか、、、これは僕と正反対である希死念慮が強い人が死なない理由(親しい人を悲しませたくない、みたいな)としてあげる場合が多いけど。

人類なんて、

虚無のブロックチェーンって思ってしまったりもするけど、

その繋がりだけが人を生かしてる

人は利他性や良心、これで生きていけるのではないかと。当たり前すぎるよな。当たり前すぎることを敢えて主張してるよ。

(少し虚無主義から話が離れます)

自分の中にある良心だとか利他性みたいな感情。ずっと正当化するのが難しかった。

こんなもので(こんなものでと言ってしまうのも失礼だけど)救われるのはなんなんだという感じだけど、ふらっと寄った本屋でなんとなく立ち読みした中野信子さんのあなたの脳のしつけ方という本にこれらは脳科学的にも脳にそういうのを司る部位はあり、イエス・キリストなどの利他性における偉人はそれらが極端に強かった人なのでは?などと書かれていて、その記述が僕の中での正当化に大いに寄与した。結局科学には救われる部分は多分にある。





4/20以降日々を送っていて

いや別に元々人生の虚しさとか知ってたし、一時期的に強くなってただけだから、必要以上に人がいつか死ぬこと関して考えすぎず、少しずつごまかせる時間は長くなってきている。元の水準に回帰しつつあるというか


共通テスト英数の点数を最大化することが資本主義社会における自分の立ち位置を考えた場合の最良の目標と考えた場合、
当面の間は東京都立大の都市環境学都市政策科学科を志望するべきだという結論に至った。

マーク試験のための勉強なんて虚しすぎるとは思う。
大学受験なんて所詮点取ゲーム全国バトルでそれ以外にデカい魅力を感じてしまってる時点で受験に向いてないんだけど、


これは完全に後付けだけど、

僕は明確に本能レベルで歴史が好きで、
インターネットの歴史クラスタとかは寒いと思うけど、自分は歴史全般が好きだ大好きだ一番好きなことは歴史だ、ということに対して確たる矜持を持ってきた人生だった。

そのきっかけは、確実には小1の時の担任が毎日のように授業中にしてた歴史の話で、
一番印象に残っているのは、小林一三阪急電鉄を軸とした都市開発の話だ
(僕は幼少期に知的好奇心を発生させるための軸が歴史であることはかなり良いと考えている。歴史上の偉人、というのはあらゆる分野にまたがるからだ。ヘルツが36?とかで死んだというのを見て敗血病怖っとなったし、そうでなくてもアインシュタインハッブルやウェゲナー(何この人選)から宇宙や地質に興味を持った。人文学に偏らない興味の原体験を持てると思う。性知識だって当時コンビニで売られてる歴史関連本を片っ端から立ち読みしてる中で読んだ戦国武将性豪列伝で基本的には得た。

十分な志望理由だと

僕は思う。


俺が父親の扶養のおかげで一浪時から住み続けている新宿という街は日本一乗降者数が多い街だ。


しかし、乗り換えにおける絶対的な立ち位置というだけでそこで何かを楽しむという感じの街ではないらしい。

Covid-19下において発生したガード下のホームレスのシュノイキスモスを見ただけで、、

都庁を中心とした超高層ビル群の“日本の中枢感”と村上龍コインロッカー・ベイビーズで描かれてるような場末感の共存はさらに拡大していくように思われた。日本が変に治安が良くて異常なだけで、大都市”ってそういうものだと思うが。。。。。。。。

しかしながら、

最近「新宿の逆襲」という都市計画の世界的権威(???)が書いたという最近発売された新書を新宿の紀伊國屋でちょっと立ち読みしただけで思わず購入してしまった。

それを受けて、、、

たとえば、最近新宿ではあちこちで工事が行われている。東口と西口の連絡通路が開通したという事実は、かなりのプレゼンスを持つ出来事だと思う。それまで東口改札から西口改札へとラクに通り抜けるために140円支払わなければならなかった、、

新宿駅はかなり高度に発達した“ダンジョン”だけど雨の日に濡れずに目的地に到達するのは難しい。たとえ“駅から徒歩5分”であっても

さらに新宿駅の多くの出口はエレベーターすら存在していない。多汗症の僕としては、真夏の日々に階段を登ることで滴り落ちる体力の汗により、瞬間的に大都市感の否定を発生させざるを得なかった。

再開発(??)ブーム(??)となっている新宿の都市計画(??)に期待するのは自然な流れだろう。

はちゃめちゃに光ってる夏の海になるために、
おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きていくぞってほどではまだないけど

ひとまず
騙し騙しながら、

騙し騙しと了解しつつも
人生をやっていこうという気持ちにはなりました。

PSPS

その1
茶髪は脱力、と語られてる宮台真司の「終わりなき日常を生きろ」を読んでいます。遂に、という感じがします。でも、こんなブログを書いてるような精神性の時に読んでよかったと思う。幼い頃から恐れてきた終わりなき日常そのものを克服するのではなく、その中で生き抜くための方法を知ろうという感じになってきているから。

終わりなき日常というか、僕の場合、日常がまだ始まってもいないけど…!

髪を青に染めながら読みました。生まれて初めて髪が黒でない色になった。この時代、茶色では終わりなき日常に対するガス抜きたり得ないだろ。むしろ終わりなき日常に染まるまである。
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終わりなき日常を克服するために髪を染めよう。これは流石に安直すぎる。
染髪は終わりなき日常への対処法を確立してるような精神性の人間の象徴にすぎない。染髪は終わりなき日常に対する単なる武器のうちの一つでしかない。
むしろ、奇抜な髪色になれるような精神性に自分がなれたことを喜びたい。

近代はいつかは終焉するだろう。そんないつくるかわからない「終末」に期待してる部分もあった。しかし、それは終わりなき日常からの現実逃避でしかない。

PSPSPS
とにかく性格とまではいかないが価値観程度なら、日々の思考の意識によって変わるということが分かったのが良かった。それでもまだ僕は予備校に通ってるわけでちっぽけな意識変革かもしれないけど。とにかく価値観の変革という成功?体験を積み重ねて、そのうち死への恐怖も克服できるような精神性になれるのでは…?という一縷の望みがある。