愚かにも物申したくなるぼくたち

個人は情報の交差点に過ぎない。

自分の考えを載せやすい論調がありツールがある。物申しやすいニュースがある。

ネット記事というのは全てではないが、とても、読みやすい。この読みやすさに慣れ過ぎると紙の本が読めなくなる。そんなレベルだ。

そうやって読みやすい形の文章で、情報を得たネット知識人(笑)層はホント現代に即していて、インターネットという全世界規模における床屋談義を展開する。

かつて、もっと知識人層とそうでない層はもっとくっきり分かれてたのだろう。しかし、本来格調高いはずの情報がバカにでもわかる形で提示されるようになり、括弧付き知識人の範囲が広がったと思う。

それだけならまだ良いんだけど、自分の考えを持ったような気になると、どうしても語りたくなる。これがタチが悪い。語り合うのは悪いことではない。とても良いことだ。しかし、自分の無知を自覚せず、床屋談義を繰り広げるほど痛いことはない。一般市民による意見の発信がこれほどまでに容易になった時代、このことは、意識しても、し過ぎだということはないと思う。

人間は愚かであればあるほど受け売りの意見を自分の理解だと勘違いして発信する。ネットメディア起源だから、マスメディア起源と違い、大衆に膾炙されていない解釈だったりするためよりタチが悪い。あまり一般的じゃないため、自分の意見がオリジナルだと思い込みやすいし、思われやすい。二次被害も大きいだろう。

こうやって今僕がこのブログで展開してる論だって害悪床屋談義なんだと思う。せめてそれを自覚してるつもりではいる。それがせめてものの自分の救いであり、また自覚してるという無知の知という形での矜持を持っている。自覚してない者に対する優越感だ。