SNSが逆説的に孤独感を高めうる卑近な例

友人のハタチの誕生日前夜に立ち会ってふと思ったこと

SNSってほんっっと孤独感というか、人望の格差を顕在化させるSNSだなと思う。特に誕生日は。

(話は少し逸れる。個人的な話をする)

誕生日を祝われることを重視してない人間にとっては無縁な話だけど、僕はとても重視している。しかし重視している割に(とても重視しているからこそ、かもしれない)、偏屈なところがある。

絶対に誕生日の当日の23時55分くらいまで自分から誕生日だとアピールするような事はしない。ずっと我慢してしまう。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでしまう。

当日に言わなくとも自発的に気づいてくれる人、覚えてくれている人は誰なのか、そして何人いるのか、いつ気づいてくれるのか、が気になる。そういったことを大して人望もないクセに思ってしまう。

自分が他人にとってそういう存在でありたいからこそ、その裏返しなのかもしれない。アピールして祝ってくれるのもすごく嬉しいことだと思う。年に一度しかないからこそ、とても幸せに感じる。少なくとも僕はそう思っている。その人が誕生日だと知ったからといって必ず祝うとは限らないんだし。なんにせよ祝われるというのは幸せなことだ。

(話を本題に戻す)
昔なら、誕生日の0時ちょうどに、誰に祝ってもらえなくても仕方がない、で済ませられただろうし、同時にLINEがくるみたいな状況はないのだから、電話にしろ1人が限界だろう。

しかし今は違う。手軽に送ることができるLINEがありmessengerがありInstagramのDMがあり、TwitterのリプライがありDMがある。同時に色んな人に祝われることが可能になってしまった。

つまり逆は厳しい状況をわかりやすく感じてしまうのだ。

しかし、こういったことを考えてしまう時点で、僕の人並み外れた承認欲求というのは、まったくもって厳しいものだなと痛感する。改めて実感する。その誇大さを。そしてまたその歪み方もなかなかキツイなと自覚してしまう。