正常な精神の終焉について

クラブハウスを始めても僕は延々と絶叫(リアル)をしてそうだ。

街でポケットからイヤフォンのコードを異常に引きずっている人が歩いていたが、わざと放置しているのかもしれないと思って、追い抜く時に指摘できなかった。

スクリーンタイム制限中にapp storeの「あと1分」機能でフォローチェックみたいなアプリを二つ入れてそれらのアプリも当然スクリーンタイム対象だからそれらのアプリのあと1分機能でつまり1分間のうちにユーザー名とパスワードを打って(いちいちアプリ消してるから保存されてない。いちいち消してるのはもうこんなことは金輪際しないでおこうと毎日思うから)、大体片想い一覧あたりからTwitterを開く。まだ、アレがそういえば気になるな…みたいな目的意識のもとにこれをやる時は良い。スクリーンタイム制限あと1分機能の「正しい」利用法だと思う。ただ、時々、漫然とこの一連の動作をやってしまう。何故だろう。なんとなく寂しいからだろうか。意味もなく昼前のTLのまばらな画面録画をしてギャラリーもスクリーンタイム制限下なのでカメラを開き左下を押して直近の画像一覧からその画面録画をゆっくり追って後でアレ後でスクリーンタイム解禁中にファボろうとか思って忘れないようにスクショしたりした後削除する。この一連の営み。空疎すぎる。空疎さに耐えかねて最後までいかないことは多い。普通にフォローチェック開いてユーザID打ってるあたりで俺何やってるだろうとなり閉じてアンストすることが多い。まぁパスワードとかの入力を一回でもミスったらその瞬間閉じるよな。その瞬間だけ正常な精神を取り戻す。

それでも。こんな限界ムーブをやってても。スクリーンタイム制限は俺はした方がまだマシだと思っている。


ためるメモっていうフォルダに
色んな人に関して、直接会ったときに言いたいリストみたいなんを作ってるんやけど
過去の自分のそのメモを恥ずかしくて見られないためどうしようない

聞き上手を目指そうと思ったのは多分中2中3くらいの時。多分結構上手くできるようになってた時期も一度くらいある。でも最近はもう全くダメになった。なぜか。人に対して浮かぶ質問の大多数に対して、立ち入った質問なのでは?と思ってしまうようになったからだ。実際多分そうでもないことが多いのに。だから自分を切り売りして会話をつないでしまう。

何かを好きだ、と言うためには相当詳しくないといけないという観念がかなり発達しつつある。捨てた方が良い気もするしやっぱり捨てなくても良い気がする。

それまで長らく存在していたのに、この歳になって初めて知り、良い…!と思ったものがあると、少なくとも自分にとって有名の基準はは自分自身が知ってるかどうかなので、こんな素晴らしいモノがあまりメジャーじゃないなんてと世に対して陰鬱な気持ちになる。メジャーであることが良いことだと思い過ぎている。

見城徹wikiを読んだらなんで僕はこの人を知らなかったんだろう今までという気持ちになり鬱になった。

ダラダラしたい…!と思ってダラダラしてるわけではない点が非常に問題の解決を困難なものにしている。

近代以降に登場した人類の中で最も人生が詰んでいるのでは?という予感が確信に最近変わった。

今年受かるつもりやけど学力が足りてないのであとちょっとやん(時期的に)とか言われても、フィーーーってなる。

逆張list故に、ある件が一番話題な時に言及を避けてしまい、色々な意見を見た上で耐えきれずちょっと後でダラダラチョコチョコ言及してしまうただの遅れてる人になってしまうことがある。

今度美容院に行くときは、ランジャタイの伊藤さんの写真を見せて、これにしてくださいって言おう。

人の選曲に対して、古っ、とか、渋っ、とかみたいな感想しか述べてくれない人間を無条件に軽蔑してしまう

僕の希死念慮不在コンプは不幸自慢に揉まれ続けた結果な気がする。

↑学費親持ち仕送り10万で病んでるとかほざくなみたいなツイートが定期的にバズるけどけどいつになったら日本人は不幸自慢をやめられるのかというお気持ち、みたいなツイートを見た時に思ったことやけど、アレをふぁぼらなかった理由は、ほざくな側に対してその通りだ!と思うから、というのと、不幸自慢をしてるのって果たして日本人だけなのか?わからない。少なくとも裏付けが取れてない。日本人主語なのが気になるというからだな。

ラブリーサマーちゃんのAH!をよく聴いてるけど、歌詞の「華の無いに愛想ない」という一節をずっと「鼻の無い(低いってこと)」だとずっと思っててよく考えたら違うなって思った僕怖い。