協調性と疎外感

協調制がないことで、どういった不利益を被ってきたのか

それは催事へのコミットに消極的であるため社会不適合と化すということである

だから、年を経るにつれて、そういったことを強要されながちになったり、そもそも催事がなかったりして楽になったのだ

しかし、社会全体が盛り上がってる時に盛り上がれないということがある

イベントによってマチマチだけど盛り上がれないことの方が多い

我関せずと受け流すことも可能だ

しかし、SNSをやっていると、どうしてもその期間は疎外感を憶えてしまうのだ

そうした時に自分の協調生の無さを深く実感してしまう

盛り上がってるフリでもできれば、自分を騙すことでもできれば、どんなに楽だろうと思う。しかし、僕には、それができないのだ。

しかし、全体主義的風潮に飲まれないという、高揚感に迎合しないという、点では良いのかもしれないとは思っている

自分、というモノを持ってるような気がするのだ。画一化された高揚に迎合しないところが

これは完全にイメージで語るが、陽って、学校単位であれ社会単位であれ、イベントごとに必ず大いにコミットしてるイメージがある

僕も学校において、高校時代は、比較的イベントにコミットしてるかのような行動を取ることが多かったが、それはよくよく突き詰めてみると、どこまでもイベントに託けたどこまでも個人的な営みであることが多かった

こういうところが永遠なる内なる陰キャ性の証左ともいえる