ツイッタラーの記者願望

よく、ただ起きている事実を報告する、それは会話文調の「受け売り」ツイートだったりとまちまちだけど、そういう類のツイートを結構見かける

僕も、かつてはものすごくしていた。今でも油断するとしてしまう

この受け売りツイートというのは誰かがしてくれるのはとてもありがたい。情報の正確さに懐疑的にならざるを得ず、良くないこともあるけど。

そして誰かがしないと、それは広まらないのは確かだ

しかし、その類のツイートをする人を、その類のツイートをすることへと駆り立てているモノはきっと承認欲求だと思う

なんとも承認欲求が歪んだ形であらわれているなと思う。少なくとも高3くらいまで僕はこのことに気づけなかった

ファボであったりRTであったりの数という、視覚化されたわかりやすい指標に置き換えられたものを自分に対する承認が与えられたと錯覚してしまっているのだ

〜のだ、と断言口調は良くないかもしれない。ただ、少なくとも僕という承認欲求の強い人間の視点から見ればそうであり、そういう動機によってそういった類のツイートをしてる者は多いと思う

こういった虚像の承認に一度満足しては、また同じ事をする、というサイクルに一度入ってしまえば、なかなか抜け出せない

虚像の承認を得るのはコツを掴めば、それなりに容易であり、気持ちがあればできるからでたる

そして、ジャーナリストを批判するわけでもないし、心ある人も知識ある人も沢山いると思う。あくまでも僕はジャーナリストの真似っこに批判を浴びせてる。

しかし、幼稚な精神性を持つ、承認欲求の囚人であるツイッタラー達はこの「ジャーナリストごっこ」を繰り返し、自己の価値をむしろ低めてしまうことすらある。しかし、バブルのように膨れ上がった偽の承認満足のせいでなかなか気づけない。

注目されてるという意識を持った時、人はどこに注目が集まっているのか。承認の対象はなんなのか。常に考えなければならない