傘(二)

その日は軽く雨が降っていた。予備校に入ろうとした時、綺麗な女性が、上着を頭で抑えて雨を凌ぎながら出てきた。きっとコンビニにでも行くつもりだったのだろう。幸い僕は傘を持っていた。予備校という屋根のある場所に入るわけだから傘はしばらく要らないわけだ。どうせその女性もちょっと行って帰ってくる感じだろう。傘を手渡して、食事室にあるから後で返しに来てくれ、的なことが言いたいと思った。もちろん、そんなことを考えてるうちに女性はどんどん予備校から遠さがっていった。気落ちしながら、まぁそれが普通のことだけど、講習のある教室に入った。

授業が始まっても例の左隣の男がどういうわけか来ない。

この日は授業開始直後脳の働きが鈍っていた。昼食を食べすぎたからだろう。「仮定法過去完了」を何度も「過定法過去完了」と書いてしまっては書き直すという具合だ。そして録音をしているという安心感からその脳の鈍りに身を委ねてしまっていた。

授業開始二十五分くらいで左隣の男は来た。

一限が終わった後、彼は僕に自分がいなかった時の分の板書を見せて欲しいと言った。若干は予想していた展開である。そして期待していた展開でもある。そして、それは同時に危惧していた展開でもあった。それは僕の中で様々な複雑な事情が絡み合っていたからだ。

僕はささやかな完璧主義者である。基本的に聞き漏らした部分や理解が十全でない部分は録音を聴いて、必要があれば授業中に取った板書やメモにさらに書き加える。もし人に見せて欲しいと言われても、出来れば自分の満足いく状態で見せたい。これは相手に対する思いやりというより自分に対するプライドだろう。実に不要なものだとは思っている。

しかし、もちろん相手にそんなことは言えない。きっと、そんなことを相手は求めてない。それに意味がわからないと思うのだ。正直怖いだろう。そんな講習で隣の席になっただけで、そこまで完璧なノートの提供を申し出たら。だって、そこまでする理由が普通はわからないから。

そうでなくても、僕は字が汚い。ふつうに字が下手なのに加えて授業では板書のみならず録音してるとはいえ、できるだけ授業中に多くの情報をメモりたい派だ。そしてその講師は特にスピードが速く、密度の濃い授業を展開する。当然ノートは汚くなる。僕は基本的に自分が読めさえすれば良いというスタンスだ。

また、僕は後で調べようと思ったことをメモるようにしている。倒置の例でforget me notと出てきた。尾崎豊 とメモった。彼の曲名にある気がしたが、確実にこの通りだったかどうか、少しだけ自信が持てなくなったからだ。こういうのも見られてしまう。見ても「???」となるだけであろう。

僕としては、彼の不在時の部分を録音を聴きながら綺麗な字で清書し、もし古文の講座のタームが同じであれば、その時にでもコピーしてあげる。もし古文の講座が違えども連絡先を交換し、僕の清書が完了し次第、写真に撮って送る。これでも良いわけだ。こういったノート提供の形が理想だと考えていた。もちろん机上の空論だ。現実には提案しにくい方法である。しかし、相手の方からそういったことをいうのは図々しいと思うだろうし、やはり僕がそういった提案をするべきではあったのだと思う。

このように、隣の席の奴が最初来なかった時点でこういった展開になることは薄々気づいていたのだ。想定内だった。可能性の一つとして考慮していた、こういった表現の方が適切かもしれない。それをわかりながら、脳の鈍りに身を委ねた自分の愚かさが哀しい。まだマシなノートを見せられたかもしれない。連絡先云々の展開に進められないのは、わかっていたはずだったのに。


傘(三)に続く