下ガッキーたち

なんかツイートとかしたくない気持ちが続いてたんやけどこれだけ結局載せる。入試の前からチマチマ「いつかツイート」みたいなフォルダに入れ続けてきてしまったから。

いやでも多過ぎるだろ
これを全世界に発信する意味ってあるんだろうか?

メモ帳でしばらく寝かせてても色褪せない鮮度が落ちにくいセンテンスだけツイートしていこう

色褪せたやつがこっち

ツイートの鮮度って本当に落ちやすくて、だからこそ受験勉強中のスクリーンタイム制限は逆にありがたかった。
肝心の受験勉強へは「まだマシ」くらいの効果だったけど、
傷みやすいセンテンスが腐るのを待つことができた。

「嫌われる勇気」より「嫌われない自信」の方が大事じゃないか?

なんか人生諦めたもん勝ちになってないか??

たとえ飽きられても一時期ハマってたという事実は消えない。 

6浪父は弟と2歳差、妹と6歳差。きょうだいは現役で大学に進学。だから父の大学進学の年、妹も大学進学で弟は就職だった。漫画みたいで嘘だと思われてしまう。

HSPを16personalityのうちの一つだと思っていた時期がある。

小学校の頃、かなり何もかも兼ね備えた女子がいたが、サイン帳の将来の夢のとこに「ふつーの人」と書いてきて、かなり差を見せつけられたと感じたことがある(一方で当時僕は離散に入り不老不死になり世界征服をすることをおぼろげながらに望んでいたので)

せめて食前にナイシトールでも飲んで安心しようみたいな気休めから、それを気休めだと了解しつつも、まったく自由になれない。

無知すぎて、3浪の2月に横浜でサボンのショップを見かけるまで
サボンってムスクとかラベンダーとかと同じカテゴリやと勘違いしてた。

セーラー服と機関銃の歌詞の
「希望という名の重い荷物を」
という一節が好きです。

あんまファボんないけど、あなたのツイート群がとても好きです、と多くの人に伝えたい。でもファボ基準を下げられない。あって良い矜持だとは思う。

感情レベルで「受け入れる」ということをしないといけないことが多すぎるけど、それは情報や知識として他人から教えられたり本で読んだりしてできることではないから大変厳しい

僕は死にたいとか決して言わないけど
希死念慮とかじゃないけど死にたい、とは言いことが結構ある。
たとえば、猫になりたい、くらいの感覚で言いたい。猫になれるわけないから。誰も気にしない。まぁ僕はどっちも言わないけど。〜たい、発言ってそんなもんなことが多い。本当に死ぬ人っているけど、安易な死にたい発言を企図だと思うべきではない。
希死念慮とかじゃないけど死にたい」を人口に膾炙した表現にしたい。

雷獣㊙️情報
僕のことを「ミート」と呼んでいる。


言い訳を自分に禁じて初めて意思に忠実になれる可能性がゼロで無くなる。
しかし、何か失敗した時に考えたその原因は全て言い訳と捉えられるのではないか。
失敗した原因を考えて次に生かそうとすることが反省ならば、反省は言い訳と密着不可分なのか。
反省とは、失敗した時の悔しい気持ちなどを忘れないようにつとめること、だと思うべきなのかもしれない。
って東大入試二日目の昼休みにメモしてた。

自分がやってて良く無いことは大概逃避なんだけど逃避であることに対して無自覚で、それにいちいち逃避というレッテルを貼り、それをやめるようつとめてゆきたい
って東大入試二日目の試験後に渋谷を歩きながらメモしてた。

そんなうるさく言われることはまず無いけど、
英字Tシャツを着ることすら控えるように要請される試験において、英語でガッツリ商品名とかが刻まれてる鉛筆を使うのは何か嫌じゃない??
せめてコンビニでそういう鉛筆を売らないで欲しい。と、東大二次二日目の昼休みに英語のマークシート用に駒場のコンビニに鉛筆を買いに行ったとき思った。
共通テストは結局シャーペンでマークしたな。
てか、
なんだろう。鉛筆じゃないと読み取れない可能性があることは警告こそするが、自己責任でシャーペンを使っても良いと言って欲しい。

16PersonalityやったらINFP-Tって出て、読んでたら、外国語の習得に非常に長けているって書いててそっと閉じたな。

高校時代、国語教師が希望者を対象として「とってもやさしい古文」という参考書を放課後みんなで集まってやるというのを企画してた。僕は当時はそんなんやりたかったら一人でやれば良いやんと思ってたが、今考えるとあの先生はホントによくわかってて、これほどためになる催しは他になかったと言える。

自分の動画を見て元気が出たとかいうのを見ると嬉しい気持ちになる。とても。そのコメントで僕が元気になる。
たとえばみんなを笑顔にしたくてとか死んでも言わんようにしたいと思ってた。完全に嘘じゃないかもしれんけど、みんなが笑顔になってるのを見て自分が嬉しくなりたいからじゃないと欺瞞的な気がする。

熟慮の末に何もしないことが多い。

僕は筋トレは好きだが、筋トレしておけば人生happyとか言ってる奴はかなり苦手である。
しかしそんなことを無邪気に言えるメンタリティからは学ぶべきモノがあるのかもしれない。

人と会話する時はこういうことを意識しよう!と日頃から思っていることが人生において常にいくつか存在してきたが、一度も会話に集中しながらそれらのことを意識できていたことがない。

村上龍映画小説集を読んでたら、何もしないということを積極的にしていたとあり、実は自分もそうなのかもしれない。そんな自覚は一ミリもなかったけど。無意識のうちに。

前、人と会って、
この国で一日に一回も西村博之の顔を見ずにインターネットをやるのは難しい。ネットで見ない日はない。刷り込み効果でこの国の子供たちは西村博之を国父のように思うかもしれない。西村博之が国民的存在になることを恐れている、
という話をしたら苦笑いをされた。

趣味:読書 とは言っても西村博之の本を読むのが好きとかかもしれないというのがある。

ランニングをしなかった日って、必ずランニングを今日はしないぞ!と決意する瞬間があって、その瞬間は一種の強迫観念からの解放を感じる。
何かしら厭さは残るがこの解放習慣をつけることで意識の面から変えていく。
ルーティンって結局強迫観念なんだけど、ひどすぎると精神衛生が悪すぎる。なんせ強迫観念を以ってしても意思に不誠実だから。

人生全てをかけてもやり切れないであろうほどやりたいこと摂取したい文化が多いから、人生に暇な時間なんて存在しないよなって思ってたけど。
全てのことは暇潰しなんだと認める。
文化の摂取もメモ帳に思考を記すことも僕は強迫観念的な“べき”論で語ってしまっているけど、
まずは全ては娯楽でしかないと認めて
だからこそ外的な予定や本当の意味でしないと人生が終わるような予定がない状態を暇と呼ぶことを認めて、自分がその時間やってることは「暇潰し」なんだという認識を持つ。ようやくこれを感情レベルで受け入れる準備の開始が可能になった。このことにより時間に対する認識も少しは変わると良いな(2021 3/7〜9)

例はなんでも良いのだけど

僕の生活に密着してるスクリーンタイム制限を例にとって書くと…
たとえば2020年の6月くらいと2020年の11月以降とかってスクリーンタイム制限の対象時間帯が全然違うわけで
2020年6月くらいにスクリーンタイム制限を題材にしてブログに書いた体験談を読んだ人が、今の僕の在り方を見た時に、この制限時間帯の変化を知らなかったら誤解することもあるだろう。
こういう些細な誤解をひどく恐れてしまってる。
自己と他者は区別しないといけないし、人と人は分かり合えないと考えてるけど。
それでもやはり誤解されることを防ぐための最大限の努力はしないといけないという考えを持っている。

(任意の場所で)(任意の人と)「遊んだ」「飲んでいる」、みたいなタームを全く使わないということを徹底している。
「○○と飲酒しながら会話した」みたいな言い方しかできない。