メモ??ツイート代わり

自己療養へのささやかな試みでしかないことの残骸みたいな

鉄壁CDを聴きながら走る時、様々な悩みから解放されて、世界には僕と鉄壁しかいないみたいな気持ちになる。鉄壁への専心が、他のあれこれに対して無心にさせてくれる。

人間は自分に価値があると思い込まないと生きていけない。
そのために信じたいものしか信じようとしない。
それではダメだと思い、「自分に価値があるだなんて幻想だ」と思うことを受け入れてる。
それでも、「自分はちゃんと幻想を幻想だと思えてる」という点で、思えてない人よりかは価値がある、という意識に支えられているという点で本質的に同じだと思う。


マスクって俺は本当に形式的なことでしかないと思ってるし、必要以上に絶対つけたくないと考えてる。
しかし、一方で、一生マスクをつけてるくせに、鼻だけ出してるやつとかおるやん。あれ意味わからん。
どうせ正式的なことに甘んじるのなら、その建前は守るべきだと思う。
これは、ソ連の、検事と弁護士が同じ人間だった裁判を、パシュカーニスが、せめてマスクをかけるとか、つけひげをするとかできなかったのか?裁判の基本形式を尊重しなさい、と言ったのと似ている。


浪人してるという事実自体も大概ヤバいけど、それ以上に受かるはずもないような低学力でありながら、起きてる最中勉強以外のことに意識的に時間を投じてしまうことがあるというメンタリティが本当になんでなんだという感じになってしまう。


最近、自分という人間が悩みを持つことに対する申し訳なさがある。こんなに恵まれてるのに。何に悩んでるのだと。そういった申し訳なさに苦しんでるわけだけど、苦しむ資格もないなと、以下無限ループ。こうした連鎖を断ち切るには何もかも関係なくなるくらい圧倒的になるしかない。世の中には、理屈を超越することができる圧倒的さというのが存在している。


本当に他人には想像もつかない愚かさを有しており、でもそれを具体的に人に話すのは憚られる。基本的に外面はよく見せてしまうし、たとえ愚かアピールをしてもそれは偽りの愚かさで、弱毒化した愚かさで、結局愚かさの核心のカモフラージュにすぎない。絶対に僕が本当の愚かさ以上に他人に愚かだと思われることはない。このギャップが。ホントはもっと愚かなのに、そうでもないと思われてるというギャップが、申し訳なさを生む。


なんだろう。いくらなんでも僕は気難し過ぎる。きまぐれにも見えるかもしれない。
実際は、細かいけどきちんと一貫性がある基準に基づいて感情は動いてると思う。でも体系的にこれといって示せるものではない。人の善意を無条件によしとできないのが厳しいんだけど、相手にこういう考えを持ってるので…!というのがその都度でしか示せない。それって逆に混乱させてしまうかもしれない。だからあんまり言えない。でも「気難しい」のはわかってしまう。老人になったら老害にならざるを得なくなってしまう。


もうね、対人コミュニケーションでも、TL見てて目に入ってきたツイートでもなんでも良いから、少しでもイラッとする 気に食わない 違和感がある と思ったら、片っ端から記録していくリストを作るべき。何がどういう点で嫌だったのか。その作業をしばらく続けて整理して、体系化したものを僕の禁忌リストとして印刷して首からかけて生活するべき。


どうなんだろう。単にわがままなだけかもしれないからな。他の人がどれくらい色んなことをいうのを我慢してるかなんて定量化されたカタチでわかんないからさ。


引用RTって最悪界の大元勲みたいなところがあって、、
普通にスクショ撮ってコメントツイートの方がずっと良い。公開垢でRTするなら。本当にサ。引用してる側は、引用していってる内容をあんまり相手に伝えようという意思がなくて、単に楽だから引用してて、それで発生してる不要な不快感が多いと思う。引用RTってライセンス制にしたほうが絶対世界は良くなる。でもそれって民主主義の否定だよな。民主主義の原則下でヌクヌク生活してその恩恵をあずかってんだから、民主主義外の世界で暮らす決意をしない限り、誰でも引用RTできる状態をなくそうとする運動に身を投じることはできない。


めちゃめちゃ文字を打ってしまった。もうそういう時期ってあるんだよ。文字に起こしたいことが沢山溢れてしまって、どうしようもない。そうしないわけにいかない。精神安定手段なんだよ。こうやってネット上に共有する必要はないのにな。なんでメモ帳の中で眠らせておけないんだろう。