号泣

僕は極めて泣くのが好きだと思う。可能なら毎日号泣したい。

泣くことは何よりものストレス発散だと思う。

しかし、最後に泣いたのはいつだろうか。

2020年1月だと思う。センター英語で大失敗をして、それについて父に話した時に思わず泣いてしまったのだ。でも、それはストレス発散にはならなかった。父の前でワンワン泣くなんてできない。かなり堪えてて、それでも溢れたちょびっとだけを発露しただけだ。そして父が帰ってしまってからその続きをやるなんてことはできなかった。

泣きたいなと思う。ジップロックから歯間ブラシを取り出すくらいのノリで。しかし、僕にとって泣くのは最大のストレス発散であると同時に決して気軽にできることではないのだ。中高校時代はよく数学教師にシバかれてギャン泣きしていたが、そもそも怒られたら割と泣いてしまう方だし、その数学教師には相当な実力があったというのがある。彼は、泣かすぞコラ、みたいなことを言ってたこともあり、半ば人を泣かすのが生業みたいなところがあったのだ。

さらに、怒られが発生する、というのはそもそも歓迎すべき事態ではないし今後は徹底的に避けて生きていこうと思っているし、怒られの発生に起因する号泣はそこまで精神の特効薬にならない。

逆に、怒られ以外で泣くというのがほとんど人生でなかった。実際の話。悲しいね。交際相手と別れて、自分から別れを告げたのに、泣くというのはあったが、それはひどく例外的だ。自習室で寝てて、元交際相手の夢を見て、泣いて起きる、みたいな。それは結構ストレス発散になったが、例外的だ。いつでも、ふと取り出せるようなライフハックにはならない。

映画や小説、何でも良いのだけれど、作品を鑑賞して泣く。これができたらどれだけ楽だろうと思う。多分泣ける作品を見ることの中毒者になってしまう。しかし、これが本当にできない。何か作品を見て感動をするということはある。明確にある。しかし、泣く、という行為にまで至らないのだ。多分、未だかつて何か作品を見て泣いたという経験がない。そもそも感動で泣いたという経験がないんじゃないかな。泣けるかも…!という経験はある。小6の時だな。体育祭で造形体操っていうのがあったんだけど、それを完遂した時だ。でも、泣かなくても良いなと思ってしまった。嬉し泣き系もだから無い。東大に受かって粉雪を歌いながら号泣できたらなとは思う。これには少し期待している。希望が持てる。レコード大賞かよってなるけど。中森明菜とかそうだったよな。

怒られたら泣いてしまう。これが一つと。対人関係で感情が昂った時だよ。これは割と泣けるかも。何でも良い。何かを力説してる時とか、悲しい時、怒ってる時。それもここ数年ない気がする。

高1の時、同級生にお金を取られて、それについて他の同級生達に話す時、自分の心中に感して力説しながら、めちゃくちゃ号泣したもの。戦闘力差によ。お金を取られたのは悔しい…!漢としてどうかと思う。お金を取り返したい。しかし教師に相談したくない。チクリって一番嫌だ。漢としてどうかと思う。どうしようもない。どうしたらいいの…ウワーーーーーーーン 、みたいな。

最近は兆候が芽生えたらその力説の類をやめてしまう。はしたないと思ってしまって。明確に声は上ずるんだけど。泣くべきでないと自分が思うタイミングで声が上ずりかけることが多い。困った話だ。

感情を昂らせるのに適切なタイミングが頻発して欲しい。

そんなことをねじまき鳥のクロニクル第三部P572を読みながらふと思って書きました。