見かけの先天性

みんなは、人間にとっての先天的な部分と後天的な部分をどのように分けて考えているだろうか

人によって様々だと思う

一応社会通念としてぼんやりとした基準はいろいろあるとも思う

僕の場合は、
たとえばルックスの良し悪しは先天的だな、でも太ってるか痩せてるか、スキンケアの行き届き具合とかは後天的な努力かとか

勉強って努力面が強いから後天的かなぁ、でも地頭は先天的かとか

実家が太いとかは完全に先天的でこれは疑いようがないなとか

そういうふうに先天的な要素と後天的な要素に分けて人を判断していた

そして、僕は、少なくとも19歳くらいまでは、後天的なことのみを承認し、それこそが正当に承認するということだと盲信してきた

僕は自分が5歳くらいから明確に個人主義者だったという自覚がある

個人主義ということはなかなか広義だが

僕はとにかくその人個人にのみ由来することだけを評価するべきだ!というスタンスを個人主義と定義していた

どこまでも「近代人」らしくあろうとしてて、個人主義はその一環だった

しかしながら、高3の終わりくらいから考え出したことで、2浪時くらいにいきなりハッとしたことがあった

それは、人を構成する要素はすべて先天的なものといえるのではないか?ということだ

ずっと高3の頃から人の先天的な要素と後天的な要素を厳密に分化して考えることをしてきたけど、それはすべて見かけ上に過ぎないと気づいたのだ

こういうことを人々は誰に言われずとも勝手に了解できてるのだろうか

人は自分に都合の良いように先天的な要素と後天的な要素に分化して考える

その平均値が社会通念となっている

社会の円滑な運営にとって都合の良い基準が社会通念となっている

そして2020年、つまり2浪時の東大入試の国語で出題された文章でカタルシスを得た

自由競争によって格差は身分制度の時代より正当化されるようになった。格差の根拠が先天的なものから後天的なものになったからだ。しかし、よく考えてみると我々って外部由来の蓄積物だぞ!みたいな内容だった

話は微妙にズレるけど、
だいたい、宇宙にある森羅万象は神なき予定調和と言えると僕は思う

ビッグバン以来、この宇宙で起きることは、すべて、それまで起きてきたことの蓄積によって規定されるといえる

僕らの一つ一つの思考だって、それまでの自分の人生によってのみ規定され、元を辿れば(それは非常に複雑に様々な要因が組み合わさっているため実際問題予想は不可能だが)極論言えば理論上は予想可能といえるだろう

要は人間機械論的なことに近いことが言いたいのだけれど…

そう考えることにより、何か変わるというわけではないけれど、、

実際僕たちはその瞬間その瞬間に脳で考え何かを判断しているということには変わりはないのだから

たとえ意識的にすべて先天的だ!考えていたとしても、実感として同様に捉えることは、近代精神の蔓延した社会を生きてきた以上まず無理だと思う

げんに僕は顔の良い女の単なる自撮りをいいねすることが、さきほどのすべては後天的だという事実を了解してもできないのだ